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1.水俣病第一次訴訟

 1956(昭和31)年5月1日,水俣病が公式確認されましたが,その後も,チッソは,メチル水銀を含んだ工場排水を流し続け,多数の水俣病患者が発生し続けることとなりました。
 このような中で,一部の患者と親族が水俣病患者家庭互助会を結成して補償を求めましたが,結局,1959(昭和34)年の年末,死者でも30万円程度の見舞金契約の締結を強いられました。
 その後,チッソは,1968(昭和43)年5月,アセトアルデヒドの製造をやめ,その4ヶ月後の1968(昭和43)年9月26日,国は,ようやく水俣病がチッソ水俣工場の廃液を原因とする公害であったことを公式に認めたのです。
 水俣病患者家庭互助会とチッソとの間で,交渉が続きましたが,厚生省(当時)が設置した第三者機関は,患者側に対し,同機関が出した結論に一切の異議を述べないという白紙委任状の提出を求めました。
 このような手法に応じることができないとして,裁判所での解決を求めて1969(昭和44)年6月14日に提起されたのが,水俣病第一次訴訟と言われる訴訟です。
 1973(昭和48)年3月20日の熊本地裁判決では,チッソの法的責任を明確に認め,1600~1800万円の賠償責任を認めました。

2.補償協定

 水俣病第一次訴訟熊本地裁判決を受けて,チッソと患者団体との間で,補償協定が締結されました。補償内容は,一時金は1600~1800万円,その他に医療費,年金,葬祭料等が定められました。この補償協定は,その後に認定される被害者にも適用されることが約束されました。

3.行政認定制度

 四大公害訴訟など公害の社会問題化を受けて,1971(昭和46)年に環境庁(当時)が設立されました。その環境庁は,水俣病特有の感覚障害(手足の先のほうが感覚が鈍るという症状)があれば,水俣病患者と認定するという通知を出しました(「昭和46年事務次官通知」)。このような状況の中で,水俣病第一次訴訟の勝訴判決後,多くの患者が,補償を受けるべく大量に行政認定申請を行うに至りました。
 水俣病行政認定申請が急増したことから,国は,1977(昭和52)年に水俣病と判断する条件を厳しく改定したのです(いわゆる「52年判断条件」)。52年判断条件では,それまでは1つでよかった症候について,「症候の組み合わせ」が必要とされました。
 現に,52年判断条件が発せられた後,認定率は激減し,認定申請の棄却率は激増しました。

4.水俣病第二次訴訟

 1973(昭和48)年1月20日,一部の未認定患者らが水俣病第二次訴訟を提起しました。最終的に控訴審判決で水俣病と認められた原告4名の中には,四肢末梢性感覚障害のみの患者もおり,昭和52年判断条件が誤りであることが明確に示されました。

5.水俣病第三次訴訟

 水俣病第二次訴訟熊本地裁判決の約1年後になる1980(昭和55)年5月21日,国による水俣病患者大量切り捨て政策を転換させるため,加害企業であるチッソだけでなく,水俣病裁判史上初めて国及び熊本県をも被告とする水俣病第三次訴訟が提起されました。この裁判は,患者数にして合計1362名の大量提訴となりました。全国各地でも弁護団が作られ,関西訴訟,東京訴訟,京都訴訟,福岡訴訟と,次々に同様の裁判が起こされました。
 しかし,これらの訴訟は長期化し,原告の高齢化が進む中,各地裁で勝訴判決が言い渡されたのを契機に,1995(平成7)年,原告だけでなく合計で1万人を超える水俣病被害者に対して,国,熊本県,チッソが補償(一時金,医療費,療養手当)をすることを条件に,水俣病問題を解決することとなりました(いわゆる「95年政治解決」)。

6.水俣病関西訴訟最高裁判決

 唯一95年政治解決を拒否し裁判を続けていた水俣病関西訴訟の原告は,2004(平成16)年10月15日,最高裁で勝訴判決を勝ち取りました。
 この最高裁判決では,国・熊本県に法的賠償責任があること,つまり,チッソのみならず国・熊本県も加害者であることが確定しました。また,昭和52年判断条件を事実上否定しました。

7.ノーモア・ミナマタ訴訟

 しかし,国は,昭和52年判断条件の見直しをせず,被害者救済に乗り出そうとしませんでした。そのため,被害者らは,新たな患者組織「水俣病不知火患者会」を結成し,たたかいを始めました。
 そして,水俣病不知火患者会の未認定患者50名が,2005(平成17)年10月3日,チッソ,国,熊本県を相手取り,水俣病により健康被害を被ったことの損害賠償を求める訴訟を起こしました。この裁判は,水俣病のような悲惨な公害を二度と引き起こしてはならないとの決意を込めて,ノーモア・ミナマタ訴訟と名付けられました。
 原告団は,すべての水俣病被害者を救済するため,恒久的な司法救済制度の確立を求めて,たたかい続けました。国は,この裁判の第一陣提訴の前に,提訴しないことなどを条件として,医療費を無料とする制度を再開し(いわゆる新保健手帳),被害者の救済を求める声を封じ込めようとしましたが,新保健手帳を返上してでも裁判に加わる者もいました。
 裁判を希望する者は着実に増え,原告数は約3000名に及びました。不知火海沿岸地域から県外へ移住し,長期間放置されていた被害者も各地で声を上げ,東京,大阪で裁判が提起され,このたたかいは全国に広がりました。
 その結果,2011(平成23)年3月25日までに,熊本地裁・東京地裁・大阪地裁において,訴訟上の勝利和解によりノーモア・ミナマタ訴訟は終結をしました。

8.水俣病特措法

 ノーモア・ミナマタ訴訟の最中である2009(平成21)年7月8日に,国会において,「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」(いわゆる水俣病特措法)が成立しました。
 この水俣病特措法は,加害者である行政が被害者か否かを判定するもので,到底全ての被害者救済につながるものとは思えませんでした。また,加害企業であるチッソの分社化を定められており,チッソの責任逃れを認める内容となっていました。
 そこで,多くの被害者団体は,水俣病特措法の成立に強く反対しました。
 実際,行政(国,熊本県)は,住んでいた地域や年齢を理由に大勢の被害者を救済対象とせず切り捨て,救済されなかった人の異議申立ても認めませんでした。
 2012(平成24)年7月末,国は,水俣病特措法の申請受付を締め切りました。多数の水俣病被害者が取り残されていることが明らかであるにもかかわらず,受付開始からわずか2年余りで窓口を締め切るとしたのです。
 このように,国は,水俣病被害者の「あたう限りの救済」(水俣病特措法4条)を掲げながら,結局,すべての水俣病被害者の救済を実現しないまま,水俣病問題の幕引きを図ろうとしており,現状のままでは,再び,水俣病被害者が多数取り残される状況となりました。

9.ノーモア・ミナマタ第2次訴訟

 このような状況を受け,水俣病不知火患者会の会員のうち,水俣病特措法で救済されなかった者48名は,2013(平成25)年6月20日,チッソ,国及び熊本県を相手どり,熊本地裁に提訴しました。「すべての水俣病被害者救済」を真に実現すべく提起されたこの訴訟のことを,私たちは「ノーモア・ミナマタ第2次訴訟」と呼んでいます。

水俣病不知火患者会